『天は人の上に人を造らず』が書かれた、学問のすすめに込められた本当の意味
【記事執筆者】水川健人
マーケター・思考設計士。個人や中小規模ビジネス向けに、マーケティング戦略のアドバイスを主におこなっている。
【価値あるものが正しく認められるビジネス業界】を目指して日々活動中。

 

この記事では『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』。

 

この言葉が書かれた学問のすすめという本、
そこに込められた本当の意味から学べることについて、
お話ししようかと思います。

 

 

『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』、
この言葉を知らない人はおそらくいないでしょう。

 

学生時に必ず学ぶ福沢諭吉さんが学問のすすめに記した言葉。
人は皆平等であり、そこに優劣はないといった意味で教えられることです。

 

実際に学生の時、この言葉といっしょに、
人に優劣はないんだよと教えられたことがあるのではないでしょうか?

 

 

ですが、実はこの言葉に込められた本当の意味は、
平等とはまったく関係がありません。

 

なぜか『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』、
さらには学問のすすめという本が、
人は平等であることを説いたものであると解釈されることが多いです。

 

つまり平等主義的な考え方を元に使われるのですが、
実際はそのような意味は含まれていないのですね。

 

なので、『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』、
この言葉に込められているであろう本当の意味と一緒に、
そこから学べる現実についてお話ししたいと思います。

 

 

ただ今回のお話し、というか学問のすすめという本は、
わりときついことをストレートに書いた本なので、
人によってはかなりきびしい内容だと感じることもあるでしょう。

 

また、もし福沢諭吉という人物に優しい人みたいな印象を持っているなら、
イメージが180度変わるかもしれません。

 

それでも良いなら先を読み進めていってくれればと思います。

 

『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』に込められた本当の意味

 

では、『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』、
この言葉に込められた本当の意味についてお話ししましょう。

 

 

まず、『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』という言葉自体は、
一般的に知られている人は皆平等という意味で間違いありません。

 

人はみんな平等であり、そこに優劣はなく、
等しく貴いものであるという意味です。

 

ですが、学問のすすめではこの言葉の後に、
『云えり(いえり)』という言葉が続きます。

 

『いえり』とは『言われている』という意味で、
つまりは『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている』。

 

学問のすすめ本当のはじまりは、
人は皆平等であると言われているという言葉であり、
その後に人は生まれながらにして貴賤はないよという言葉が続きます。

 

ここまでだと一般的に言われているように、
人は皆平等であることを説いているように見えますよね。

 

ですが、その後にこう続くのです。

 

『されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、
おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、
その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。』

 

これは、しかし実際にはかしこい人とおろかな人、
貧富の差、貴いと呼ばれる人と下人と呼ばれる人がいて、
その有様には大きな差があるという意味です。

 

これは明らかに人は平等であるとは真逆の考え方であり、
前後の文脈から見てもこちらが福沢諭吉が言いたい本当のこと。

 

『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』、
この言葉に込められた本当の意味とは、
人は皆平等であるとは真逆なのです。

 

『人は皆平等であると言われているが、
実際にはその有様に大きな差があるのが現実である。』

 

『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』を否定しているのが、
この言葉に込められた本当の意味なのですね。

 

 

そして、その大きな差はなぜ生まれるのかという疑問に対して、
『賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり』、
このような言葉が書かれています。

 

これはそのまま、学ぶか学ばないか、
勉強するかしないかがその差を生むという意味です。

 

つまり『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』が書かれた学問のすすめとは、
実際、人には差があり、その差は勉強するかどうかにある。

 

このような意味を持つものなのです。

 

人は平等だがその有様は不平等で当たり前である

 

と、ここまで見ると福沢諭吉が、
人は不平等で当たり前だと公言している人に見えてしまいますが、
実際にはそうではありません。

 

あくまでもその有様が不平等なのが当たり前であり、
人そのものは平等であると言っているのです。

 

その証拠に以下のような言葉が学問のすすめには書かれています。

『その有様を論ずるときは、貧富、強弱、智愚の差あることはなはだしく、
あるいは大名華族とて御殿に住居し美服、美食する者もあり、
あるいは人足とて裏店うらだなに借屋して今日の衣食に差しつかえる者もあり、
あるいは才智たくましゅうして役人となり商人となりて天下を動かす者もあり、
あるいは智恵分別なくして生涯、あめおこしを売る者もあり、
あるいは強き相撲取りあり、あるいは弱きお姫様あり、
いわゆる雲とどろとの相違なれども、
また一方より見てその人々持ち前の権理通義をもって論ずるときは、
いかにも同等にして一厘一毛の軽重あることなし』

 

有様とは人の現状のことです。

 

例えば、大きな収入を得て人生を幸せに生きているか、
それとも日々の生活を送るのが精一杯の人生を生きているか。

 

このような、人が今いる現状を有様と呼び、
そこに不平等があり、不平等は当たり前だと言っています。

 

ですが権利通議、これは現在の基本的人権のことですが、
人の命の重みは同じであり、財や名誉を守る権利、
自由に行動できる権利を生まれながらにして持っている。

 

このような意味になります。

 

つまり、人はその命や権利に差はないが、
その有様に差はできるというのが、
福沢諭吉が学問のすすめで書いていることです。

 

 

そしてここで重要なのは、有様と権利通議は別ということ。

 

多くの人が言う平等とは、権利通議はもちろんのこと、
それに加えて有様も平等であるべきという主張ですが、
これは間違いだと福沢諭吉さんは言っています。

 

生まれながらに持つ誰でも自由にできる、
自由に上を目指せるという権利は平等に与えられるべきだが、
その後の有様は自分自身次第であり、その結果どのような状態となっても、
それは自己責任であり、不平等であるべきということです。

 

例えば同じように義務教育を受けてきて、勉学に励むチャンスを与えられ、
学び富んだ人と学ばず貧しい人が不平等なのは当たり前ということになります。

 

学問のすすめの本当の意味から学べること

 

ここまで、『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と、
学問のすすめにこめられたほんとうの意味について、
お話ししてきました。

 

もし、これまで学問のすすめを平等を説いた本だと思っていたのなら、
その印象は180度変わったことでしょう。

 

では、ここからはこの本当の意味から学べる現代社会の現実について、
お話ししていきます。

 

ただ、学問のすすめから学べることを話しだすときりがないので、
ここではとりあえず学んでおきたいと個人的に思うことを、
2つにわけてみました。

 

  1. 人の有様は全て自分の責任である
  2. 人が有様を変えるのに早い遅いはない

 

この2つです。

 

人の有様は全て自分の責任である

 

まず人の有様、現状は、全て自分自身の責任であるということ。

 

つまり、現状が良かろうと悪かろうと、
それは自分自身にすべての責任があり、
それ以外の理由は無いということです。

 

 

というのも、多くの人は現状が悪かったりすると、
それを他人や環境のせいにします。

 

これは実際に福沢諭吉さんも、
人はその有様が自分の意に沿わない時、
自分の非を認めず富めるものを怨むと言っています。

 

ですが、先程もお話したように有様と権利通議は別であり、
自分の有様は全て自分のこれまでの行動の責任だと。

 

学問のすすめに沿って言うなら、
現状の有様がひどいのは学ばない、勉強しないからだということ。

 

そしてこれは真実です。

 

それが正しいかどうかに関わらず、
今の資本主義という社会は知恵ある賢い人が動かしていて、
その真意を汲み取れるぐらいの学がなければ、ただ搾取されていきます。

 

実際、頭脳労働な職業に付く人は全体的に収入が高く、
肉体労働な職業に付く人はその逆です。

 

現実として頭脳労働ができる賢い人のほうが、
優遇されやすい社会となっています。

 

もちろん、肉体労働で日々の生活が精一杯でも、
その職業に誇りを持っていて、現状に不満がまったくないというなら、
それは良いことです。

 

ですが、もし現状に不満があって、それを自分以外の責任にしているなら、
まずは現実を受け入れ、今の有様は全て自分の責任であること。

 

これまでの自分自身が招いたものであということを、
まずは受け入れましょうと学問のすすめでは言っているのです。

 

人が有様を変えるのに早い遅いはない

 

現状を受け入れた時にはじめて、
人はその有様を変えることができるようになります。

 

そしてそれは、早いも遅いもないのです。

 

学問のすすめに沿って言うなら、
学びはじめるのに早いも遅いもないということです

 

 

というのも、基本的に頭脳労働は早くやったら成功するとかはありません。

 

これがスポーツとかなら、小さい頃からはじめた方が、
有利などということもあるでしょう。

 

ですが例えば起業とかなら、定年退職後とかから始めても、
ある程度の成功をおさめることができるのです。

 

実際にそういう例も数多くあり、特に僕が心打たれたのは、
若宮 正子さんというプログラマーの方の成功談です。

 

有名な話しなので知っているかもしれませんが、
若宮さんは82歳でiPhoneアプリを開発し、
Apple主催のイベントに呼ばれたり、国連での基調講演をしたりなど、
一躍時の人になりました。

 

詳しく知りたい人は『若宮 正子』のキーワードで検索すると、
いくらでもニュースや記事などがあるので見てみてください。

 

 

と、このストーリーからもわかるように、
基本的に人が学び始めるのに、学びはじめて人生を変えるのに、
早いも遅いもないわけです。

 

どれだけ現状が悪かろうと、
変えたいという思いと、学びたいという思いがあれば、
いくらでもその有様を変えられる可能性があります。

 

特に現代ではネットの登場で、
個人がビジネスや情報発信を始めることに対して、
ハードルが低くなっています。

 

これだけ環境が整っているのですから、
後は学ぶ意欲と行動するかどうかの問題なのです。

 

 

以上が、学問のすすめからとりあえず学んでおきたい2つのことになります。

 

学問のすすめはそのまま学ぶことを説いた本だった

 

ここまで、『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』や、
学問のすすめに込められた意味、そこから学べることなどをお話ししてきました。

 

そして、ここまでの話しを一言でまとめるなら、
人生を変えたければ学び続けようということです。

 

 

というのも学問のすすめという本は、
内容は割と過激なことが書いてある部分もあります。

 

例えば『すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役りきえきはやすし』、
このような一文があるのです。

 

これは頭を使う仕事は難しく、身体を使う仕事は簡単だと述べていて、
見方によっては肉体労働を下に見た言葉に見えるでしょう。

 

ですが、学問のすすめは明治維新後に書かれた本で、
封建社会が崩壊し、民主主義や資本主義が広がっていく。

 

そんな時に書かれた本です。

 

ちなみに封建社会とは生まれながらに身分の決まる社会であり、
農民に生まれたら農民に、殿様として生まれたら殿様となり、
それはほとんど変わることはありませんでした。

 

つまり、生まれが人生の全てを、ほぼ決めていたのです。

 

ですが、そんな社会から民主主義と資本主義が広まることで、
生まれではなく実力があれば誰でも上を目指せる社会が到来し始める。

 

そして先程もお話ししたように、
資本主義社会は知恵ある人が動かし、富む社会です。

 

なので、そんな新たな社会の転換期に、
実力主義と知識重視社会が現実としてくることの警告と、
将来にわたって学ぶことによっていかようにも有様を変えられるということ。

 

そしてそれは誰にでも可能で、早い遅いはなく、
ただやるという意志があれば達成できるのだと。

 

福沢諭吉さんはそう言いたかったんじゃないかなと、
僕は考えています。

 

 

と、色々お話ししてきましたが、
学問のすすめという本は賛否両論、
読む人によって見方も変わる面白い本です。

 

なので、まだ読んだことがなくて興味を持ってくれたなら、
この機会にぜひ一度読んでみてください。

 

自己啓発本としても優れているので、
人によっては人生を一変させるきっかけになるかもしれませんよ。

 

 

では、今回はここまでです。

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