
マーケター・思考設計士。個人や中小規模ビジネス向けに、マーケティング戦略のアドバイスを主におこなっている。
1998年アメリカ、スタンフォード大学の2人の院生、
ラリー・ペイジさん、セルゲイ・ブリンさんが、
1つのベンチャー企業を立ち上げました。
そのベンチャー企業は今日ネットを通じて圧倒的な力を持ち、
資本、影響力共に世界でもトップクラスの企業。
ネットを使わない人でさえも名前すら知らないという人は、
おそらくいないほどの知名度も獲得している。
それがグーグル(Google)であり、今も成長発展を続けています。
傍から見ればネット世界の秩序を司る神にでもなるのか?
と思わず考えてしまいそうな勢いです。
というか、一時期はまさにそのような企業となった。
ですが長期的に見たときグーグルは衰退していくだろうと僕は考えてます。
グーグルは過去に決してしてはならない過ちを犯し、
神の座に居続ける可能性を自ら手放したからです。
今ではただ力がある普通というとあれですが普通の大企業であり、
しかもその影響力は時間が経つにつれて落ちてきているのが見て取れる。
それでもまだ、過去に積み上げたものと今も積み上げようとする努力。
これらがGoogleを支えてますが本当の意味でネット世界を担う企業には、
これから先もうなれないだろうと思います。
そして、ビジネスの運営に携わるなら個人でも企業のトップでも、
Googleが犯した過去の過ちと同じことを繰り返してはならない。
Googleは過去の過ち以前に積み上げたものがあまりにも大きいがゆえに、
その後20数年にわたる現在まで、それからしばらくの未来まで、
影響力などを維持していくことが可能。
ですが、個人や中小企業レベルのビジネスであれば、
ほんの一瞬で全てが吹き飛んでしまってもおかしくない。
しかも立て直しはきかない。
そういうレベルの過ちなのです。
ここではGoogleがネット世界の神の座を掴みそこねた決定的な失敗、
その内容を理解し自分のビジネスにどのように活かせばよいか?
そんなテーマでお話していこうと思います。
なぜグーグルはここまで巨大な力を持つことができたのか
グーグルが犯した過ちの大きさを正しく理解するには、
なぜグーグルはここまで巨大な影響力を持ったのか?
しかも短期間の間にそれができたのか?
このことについて知っておく必要があります。
冒頭でも話したようにグーグルは1998年に、
2人の大学院生によって作られた。
その後、2004年に新規株式公開(IPO)したときには、
すでに年商1500億円の巨大企業になっていたのです。
しかも、ビジネスモデルがネット完結型だったために、
利益率も高く資産も500億円ほど持っていた。
1年後には年商1800億円まで上昇するほど成長率も高い。
グーグルが赤字だったのはビジネスモデルが定まってない、
創業初期の間だけで後はずっと成長、発展を遂げてきました。
しかも、創業からわずか6年ほどでやってのけたのです。
ネットを活用し急成長した代表的なビジネスだとアマゾンがあげられますが、
こちらは確固たるポジションを築くまで成長するのに十数年かかったし、
巨額の赤字が続いていた時期もありました。
それでも類まれな企業であることに変わりありません。
そんなアマゾンの半分程度の期間で、しかも成長発展し続けたまま、
現代に至るまで大きな影響力を持ち続けているグーグル。
それを可能とした鍵はいくつかあるのですが、特に大きいのは時代。
グーグルは時代に愛され、時代によって押し上げられた企業なのです。
というより大きく、しかも短期間で成長するような企業は、
ほぼ例外なく時代に愛されていたという特徴を持ってます。
先ほど名前を出したアマゾンもそうです。
アマゾンはネット利用者が年200%増加する時代、
創業者であるジョフ・ベゾスさんがそこに着目し、
本の売買をネットで行う事業から始まりました。
当時、ネット利用者が爆発的に増えると同時に、
ネットで買い物をするということも広まり始めた頃。
まだ、ネット上であまり売買されておらず、
かつ将来性のある商品候補の中から、
本を選んでEコマース事業をはじめたのです。
それが大ヒットし得た利益を元手にして、
物流などに積極的に投資を行っていく。
そうして、世界最大のネットショップの地位を手に入れました。
ですが、もしベゾスさんがあと10年生まれるのが遅くて、
ネット売買が一般的になった時代に起業を考えたとしたら?
ここまでの急成長はあり得なかったでしょう。
ネット利用者の急激な増加、ネットでの売買の普及、
それに反比例したライバルの少なさ。
そんな時代背景があったからこその並外れた成功だったのです。
グーグルもそれと同じようにある時代背景があり、
それにマッチしたコンセプトだったからこそ、
あそこまでの急成長を遂げました。
では、グーグル創業の時代背景とはどんなものだったか?
簡単に言うならネットいう情報世界に対して、
人々が大きな不安と希望を同時に抱いていた時代です。
当時、主にアップルの功績によって一家に一台パソコンが実現、
携帯でネットが使えるなど技術的にも進歩していく過程で、
誰でも簡単にネットから情報を受け取れる時代が到来し始めた。
ですが、ネット上のコンテンツの質は玉石混交であり、
価値あるものもあればそうでないものもあります。
中には騙すことが目的の詐欺まがいのコンテンツもあり、
便利であると同時に危険であるという認識が一般的。
おまけに当時のネット上に存在するコンテンツ数は、
個人で管理しその良し悪しを判断することが、
すでに不可能なまでに膨れ上がってました。
目の前に誰でも簡単にしかも低コストで触れることができる、
大きな情報の海が存在している。
うまく使えば大きなメリットがあるかもしれないけど、
すでに個人では使いこなせないほどの巨大さであり、
使いたくても使えないという状況だったのです。
そこに現れたのがグーグルでした。
グーグルは検索エンジンという情報を瞬時に解析し、
価値あるものを人の目に触れさせるシステムを開発します。
使いたくても使えないネットという世界に、
価値を判断する基準を作り出したのです。
加えて、価値を判断するのは人ではなく、
AIであるというところが重要でした。
価値の選別は全てAIが行い、そこに人の意志は入らない。
特定の誰かの利益等に左右されることなく、
ただ機械的に価値あるものを選別表示する。
そうしてネットという情報世界に秩序を生み出す。
これがグーグルの検索エンジンの理念であり、
同時にグーグルが一気に世に広まった理由。
グーグルはネット上のコンテンツに対して、
人の意思が介在しないとされるAIを導入することで、
何が価値あるかの基準そのものになったのです。
そしてこれは、ある意味では宗教における神と同じこと。
宗教における神は正義や規範の絶対的根拠であり、
なぜ正しいのか=それは神だからだ、を成立させるもの。
なぜグーグルの選別したコンテンツは価値があるといえるのか?
それはAIという誰かの利益に忖度せずに、
機械的に価値を選別するシステムだからである。
イコール、グーグルはネット上の絶対根拠である。
これを当時のグーグルはなし得ました。
ここまで度々『神』という言葉を使いましたが、
これは決して比喩ではありません。
グーグルは文字通りネットという世界の価値の絶対根拠、
すなわちネット上の情報を司る神になったのです。
ネットという希望が目の前にあれど、
手を触れることがはばからられる時代。
そこにグーグルがAIによる検索エンジンを開発し、
人ならざるものが選別する価値の基準を生み出した。
神を信仰するようにグーグルの利用者が加速度的に増え、
そこに広告によるマネタイズ方法を導入する。
広告は見る人が多いほど出したいと考える顧客が増えますから、
検索エンジン利用者が増えることで収益力も一気に増えます。
収益をさらに別のサービス開発等に投資することで、
利用者を増やし収益が増えるサイクルを作り出していった。
これが、グーグルという企業が短期間で発展し、
影響力、資本共に巨大になっていった根幹となる理由です。
グーグルが神になり損なった決定的失敗
グーグルはネットという生まれたばかりの世界で、
生まれたばかりの神になりその座を盤石にしていく。
そういう歴史をたどることもあり得たかもしれませんが、
そうはなれなかった決定的な失敗を犯します。
それにより神の座から転げ落ちてしまった。
ただの人が運営する一個の大企業へと落ちぶれてしまうのです。
では、犯してしまった失敗とは何か?
それは、2006年1月におこりました。
グーグルは当時急成長を遂げていた中国市場に参入するため、
中国政府の要請に応じて特別な検索エンジンを提供し始めたのです。
千語近くのホームページや用語へのアクセスを制限するもので、
制限されたものは中国政府にとって不都合だと考えられるもの。
例えば天安門事件などについてのホームページに、
アメリカ版からはアクセスできても中国版からはできない。
そんな検索エンジンでした。
そしてこれは、グーグルがこれまで掲げていた理念、
特定の誰かの利益によらず価値あるものを提示する。
誰かにとって役に立つ情報や事実をありのまま伝え、
ネットという情報世界に価値の基準を作り出す。
すなわち秩序を生み出すという理念と、
真っ向から対立する行動でした。
自社の利益のために自社の都合で、
中国政府の要請をのんだのです。
これはつまり、グーグルは決して価値の絶対的基準ではなく、
利益のために都合よく価値の基準を変えることができ、
それを実行することをいとわないと宣言したようなもの。
これは、当時も大きく批判されていましたが、
多くの人が考えるより遥かに大きな過ちです。
誰の利益にもよらず価値の基準となるという理念は、
グーグルがグーグルであるために絶対に曲げてはいけない、
変えのきかないものであったと考えられるからです。
そもそも、なぜAIを使ったから誰の利益にもよらない、
絶対中立の価値の基準と言うことができるのか?
そんな疑問がわいてもおかしくありませんでしたが、
当時AIという技術が多くの人にとって未知であったことと、
実際グーグルのおかげでネット内の情報が整理されたこと。
そういった時代背景も相まって特に疑問視されることなく、
一気に世界中に広まってネット内の秩序を生み出し、
ネット世界の絶対根拠となることができた。
一度そうなれば少なくともグーグルの利用者は、
神を絶対のものと信仰する宗教の信者と同じように、
なぜという疑問を持つことはめったにありません。
あったとしても大抵の場合は違和感を正当化してくれます。
外野の冷静な分析や指摘を受けたとしても、
耳に入ることはなくグーグルを利用し続ける。
ですが、もし神の存在が真っ赤なウソだったことが、
誰の目にも明らかなほどに証明されてしまったら?
誰もその神を信仰することはなくなる。
2006年にグーグルが行った制限付き検索エンジンの提供は、
つまりはそういうことなのです。
当時、多くの人にとってまだ未知のAIという技術で、
絶対的な価値の基準を利用者に信じさせることに成功し、
ネット世界の神という絶対根拠としての地位を確立した。
だけどそれはまやかしで、AIは中立的なものではなく、
人の意思によって簡単に基準を変えることができる。
そのことが明るみになってしまった。
明るみになり人々はこれまで疑問視すらしてこなかったこと。
なぜ、グーグルが価値の基準といえるのか?
という疑問を普通に発露できるようになったのです。
この時点で、グーグルは企業名こそ同じですが、
それ以前とは全く別の企業になったと僕は考えてます。
2006年まではネット世界の絶対的秩序の化身であり、
企業という枠を超えた存在として君臨していた。
それ以降は普通の企業と同じようにメリットで選ばれる、
普通の大企業となり競争に巻き込まれるようになった。
それまで積み上げてきたものが大きかったために、
新しい技術の開発や買収によるライバル潰しなどで、
現在にいたるまで影響力や資本力を維持してはいます。
しかしSNSなどでは、グーグルはあくまで一企業であり、
利益のために検索エンジンの順位を操作しているなどと、
おおっぴらに言われている。
グーグルの元幹部の人などが集まって古巣のあり方に苦言を呈し、
広告廃止や個人情報保護にきちんとつとめるために、
サブスク型の検索エンジンサービスを提供し始めるなど。
影響力の低下が見て取れることが多々あります。
いくら新しいものを作ろうと便利になろうと、
価値の基準であると無条件に信じられていた、
過去のグーグルにはもう戻れない。
影響力の低下は避けられず、それによる人離れも起き、
人が離れれば大きな収入源の一つである広告業の収益も下がる。
技術がさらに発展していけばグーグルだから提供できるような、
目新しい価値もどんどんなくなっていくことが予想できます。
長期的に見れば衰退していくだろうなと考えられ、
そのきっかけとなったのが2006年の出来事。
これが、グーグルが犯してしまった最大の過ちです。
ビジネスをやるなら意識しておくべき信仰性
ここまでグーグルの発展してきた理由や、
犯した最大の過ちについてお話してきました。
そして、ここからがある意味本題なのですが、
グーグルが一時期得ていた圧倒的な信仰。
これはどんな規模、形態かを問わずあらゆるビジネスが、
少なからず誰かから得ています。
決してグーグルだけの特別な要素というわけではなく、
ビジネスとして成立しているならそこには信仰があるのです。
なぜ『私』は『あなた』を信じるのかという基準であり、
これを僕は『信仰性』とよんでいます。
信仰、つまりはある時点でその根拠に疑問を呈することなく、
無条件でそのビジネスを、人を信じる要素のことです。
例えばあるダイエット商品を販売するビジネスがあるとしますが、
その商品を買えば本当にダイエットに成功するかどうかは、
どれだけ説明されても買って実践するまではわからない。
どれだけ丁寧に要素を説明されたとしてもどこかで必ず、
なぜそれがダイエット成功に役立つのか?
という疑問が必ず出てくる。
その疑問の答えを説明されたとしても、
その答えに対する別の疑問が出てくる。
さらに別の疑問が~と限りなく湧き出てくるはずです。
ですが、人はある時点で疑問に思うことをやめ、
その商品を買わないという選択をするか、
あるいは買うという選択をすることになります。
この選択の際に買う、つまりはその商品を、ビジネスを信じる。
そんな決断をしてもらうために必要なのが信仰性です。
買うという行動だけに限らず誰かの情報を受け入れる時など、
必ず論理的、合理的といった思考の枠組みを超えて、
無条件で相手を信じるかどうかの境界というものがある。
それを超えるためのものです。
あなたも誰か尊敬できる人や信頼できる人などがいると思いますが、
そんな人の情報は内容いかんに関わらず無条件で正しいと受け入れる。
そんな経験はないでしょうか?
もしあるとしたらその人はあなたに対して、
信仰を抱かせる何らかの要素を持っているか、
あるいは意図的に生み出しているということ。
これが信仰性です。
そして、もし何らかのビジネスをしているのなら、
あるいはこれから始めたいと思っているのなら。
あなたのビジネスを無条件で信じる根拠となる、
信頼性とは何かを明確にし把握しなければなりません。
すでに顧客等がいるのであればその人達は、
何を根拠に自分(のビジネス)を信じてるのか?
それを把握する努力をしなければならないし、
把握してブラさない努力をしなければならない。
これからビジネスを始めたいのであれば、
何が自分を信じる根拠たるものとなるか?
これを明確にしてブラさずにいる努力をしなければなりません。
特に、一本通し決してブレない何かを作るのが重要です。
細かいところは時間が経ち経験や知識を積み、
成長したり方向性が変わったりして、
変化していくこともあるでしょう。
それは悪いことではありません。
ですが、それでもブレしてはいけないものが、
ビジネスが成立しているのなら必ずある。
それがブレるとそれ以前と以降で、
全く違うビジネスになるのです。
グーグルも検索エンジンから始まりましたが、
それ以降多種多様なサービスを展開してきました。
ですが、誰かの利益によらずネット世界に秩序をもたらす。
これがグーグルの屋台骨、信じられる根源であり、
これだけはブラしてはいけなかった。
ですが、2006年にこれをブラしてしまうことで、
それまでとは全く違うものに変わった。
価値の絶対根拠からメリットで選ばれる企業になったのです。
何度もお話してるようにグーグルは巨大だったために、
ブレてもなお残る影響力や資本がありました。
ですが、個人や中小規模程度であるならば、
全てが一瞬で吹き飛んでもおかしくない。
信仰性はそいうものだということをビジネスに関わるのなら、
常に意識して活動していくことが大事です。
ビジネスの信仰性を考えるうえで勘違いしてはならないこと
ビジネスの信仰性を考えるときに気をつけてほしいのが、
"信仰性"と"選ばれる理由"は違うということです。
選ばれる理由というのは価値や学び、機能性といった、
誰かにとって有益であるという要素。
ですが、これら要素は別のより大きな要素に、
取って代わられてしまうものです。
3キロ痩せる事ができるという価値で選ばれるなら、
5キロ痩せることができるという価値が現れれば、
そちらに人は流れていってしまう。
選ばれる理由は常に別の要素で置き換え可能で、
競争状態に身を置き続けることを意味します。
対して、信仰性は代わりになれる人やビジネスがありません。
似たようなものはあれど全く同じというものはなく、
また完全にパクることも不可能。
その人、あるいは企業だからこその個性であり、
後追いしてもただのパクリだと思われるだけか、
全く違うものだと捉えられるだけです。
グーグルも2006年の失敗までは個性を持っていて、
それに共感等した人たちが急激に集まってきた。
検索エンジンが有益なものだと知ったIT業界は、
同じようなものを作ることに力を入れてみたものの、
結局はグーグルの一強状態を崩すことができなかった。
これが信仰性の力でしたが最大の失敗以降、
個性を失いメリットで人を集めるようになり、
代わりが存在しうるという状態になった。
それでも高い技術力や創造力でメリットを生み出し続けましたが、
影響力を徐々に失っていくという状況は避けられなくなった。
このように信仰性と選ばれる理由の違いは意識しておいてください。
あなたが信じられている理由はなんですか?
グーグル創業者の2人は間違いなく高い志を持っていたと思います。
これから発展するであろうネットという情報世界の中に、
人々の力を最大限に引き上げるための秩序を形成する。
誰もがより多くの情報に触れて創造力を発揮し、
また誰もが誰かに創造力発揮させる種となる。
そんな世界を目指していた。
そのための検索エンジンという技術だった。
しかし、今だからこそ言えることですが収益化のための手段に、
広告という方法を導入し発展させていったこと。
それ自体がそもそもの間違いだったと僕は考えています。
というのも、ビジネス的な観点から見たとき広告業という手法は、
お金を払って売上をもたらす存在が広告出稿者になる。
重視する相手が検索エンジン等の利用者ではなく、
広告出稿者になっていくということを意味します。
しかも、グーグルの広告サービスの仕組みはオーディション、
よりお金を払う人の広告が表示されやすくなるというものです。
つまりはより資本という力を持った人や企業、
グーグルに利益をもたらす存在が優遇される。
それ自体が悪いことなわけではありませんが、
グーグルが巨大な影響力を得た信仰性と、
圧倒的に相性が悪いのです。
よりお金を出した人や企業が多く露出できることになり、
広告出稿にある程度の審査などを導入しているとしても、
それが誰かにとって最も価値あるものであるとは限らない。
おまけに秩序を形作ると言いながら例えば検索エンジンでは、
コンテンツの前に価値が保証されずお金という力で選別した、
広告一覧が一番最初に表示される。
それを飛ばして一番最初に表示されるコンテンツを開くと、
アドセンスという広告が大抵の場合は導入されていて、
コンテンツに集中できないということも多々ある。
特にスマホとかだとうっかり指が触れて開くつもりもないのに、
広告が開いたりして邪魔だと思った経験ありませんか?
明らかにコンテンツに集中する妨げになっていて、
きちんと価値を届けられているとは思えない。
加えて売上を増やすには利用者を増やす事が重要で、
だからこそ当時急成長が予想された中国に参入するため、
ついには根本となる価値の秩序を捻じ曲げた。
広告業とグーグルをグーグルたらしめる信仰性は、
真っ向から対立する要素同士であり、
同時に導入することは不可能なものだったのです。
信仰性を重視するなら先程少し話題に出した元グーグル幹部達の、
サブスク型のサービス形態の方が相性が良かったでしょう。
ただ、それが創業当時に受け入れられたかはわかりません。
普及し始めたとはいえネット発展途上だった時代で、
無料だから使われていたという要因は否定できず、
有料にしても人がついてきたかどうかは定かではない。
また、あそこまで一気に巨大化することは広告業という、
収益性において相性の良いサービス形態以外では、
おそらく無理だったとも思います。
それに、結果だけ見れば影響力、資本共に、
短期間で一気に成長発展を遂げた。
2006年の出来事で180度進む方向性が変わりましたが、
多少落ちたとはいえ現在に至るまで力を維持している。
これから先、このままメリット重視の方針でいく限りは、
影響力など徐々に落ち続けると僕は考えますが、
類まれな成功のケースであることは間違いありません。
ですが、これは創業者の信念が時代に愛され、
うまく噛み合ったからこその圧倒的レアケース。
ここまでにお話してきたように大抵のビジネスは、
信仰性を失えば一気に失墜します。
なので、自分が信じられている根拠(信仰性)は何か?
これは常に意識しておくべき重要なことで、
常にブラさずにいることを心がけてみてください。
では、今回はここまでです。